ロサンゼルスの貧困地域で、20年以上にわたり女性たちを恐怖に陥れた連続殺人犯「グリム・スリーパー」。犯人はロニー・デイビッド・フランクリン・ジュニアで、1985年から2007年にかけ、少なくとも10人の女性を殺害したとされている。被害者の多くは若い黒人女性の売春婦やクラック中毒者で、路地やゴミ箱に遺棄されていた。
1988年から犯行が一旦止まったように見え、2002年まで新たな被害者が確認されなかった。この14年間の空白期が「眠り」の期間「グリム・スリーパー(眠れる殺人鬼)」というニックネームの由来となっている。
しかし、彼が本当に活動を止めていたわけではなく、他の犯行を隠ぺいしていたか、別の方法で続けていた可能性が高いとされている。
ロニー・フランクリン Jr. は1952年8月30日に生まれ、麻薬、売春、暴動、ギャングが日常化していたロサンゼルスのサウスセントラルで育った。彼の幼少期はあまり明確にされていないが、法定記録などに極端な貧困や虐待の記述はなく、典型的な連続殺人犯に見られるような壊れた家庭環境ではなかったとされている。
車に興味があり、手先が器用で機械いじりが得意だったとされ、7才ですでに父親から車の運転を教わったと言われている。
青春時代には問題行動が目立ち16歳で盗難車の所持容疑で逮捕され、その後も自動車窃盗と車内窃盗で2回少年逮捕され、いずれも保護観察処分となった。この後、彼は高校を中退し、父親の勧めで陸軍に入隊。1974年、西ドイツ・シュトゥットガルトに駐在中のある夜、ロニー(当時21歳)は仲間2人と、ボーイフレンドの家から帰宅途中の17歳の少女に『家まで送るよ』と声をかけ、車で連れ去った。ナイフで脅し、3人で集団性的暴行を加え、犯行中にロニーは、ポラロイドカメラで写真を撮影していた。なんとこの少女は機転を利かせ、ロニーに気があるふりをして、彼の電話番号を入手した。その番号を警察に渡し、少女自らがおとりとなってロニーを誘い出し、実行犯の逮捕に成功した。これでロニーは有罪・不名誉除隊となり、3年4ヶ月(40ヶ月)の判決を受けたが、実際には1年未満で出所し、23歳にLAに戻った。その後は比較的普通の市民生活を送り、ベリーズ出身の女性シルビア(Sylvia)と結婚し、2人の子供(息子のChristopherと娘)をもうけた。
主な職業はロサンゼルス市のごみ収集員だったが、ロニーは一時期ロサンゼルス市警(LAPD)のガレージで警察車両の整備手伝う仕事までしていた。ウェスタン・アベニューとハーバード・ブルバードの間の81stストリート沿いに緑色の平屋に大きなガレージ付きの一軒家に住んでいた。ここで妻シルビアと30年以上連れ添い、子供たちを育て、安定した家庭人としての生活を送っていた。
街はギャング抗争や「クラック・コカイン」の流行にパニックになっている最中、ロニーは青も赤も(ギャングカラー)身につけていない。ギャングのハンドサインも投げたりしない。脅し文句も叫ばず、いつも丁寧な口調で話した。庭の芝生を綺麗に刈り、近所の人々とバーベキューを楽しむ良い父親だった。手先が器用で車の修理が得意だったため、家のガレージで近所の人の車を直したり、パーツを安く提供したりして「親切なLonnie」として頼りにされる存在だった。クラック中毒者や売春婦が嫌いで安全な地域を保とうとしていた。
もし少し妙だと言うのであれば、ポラロイドを持ち歩きよく撮影していた、そして女性に対しては時折過度に性的・敵対的な態度を見せることもあったが、彼が深い闇を抱えていると疑う者など1人もいなかったとされている。
1985年8月、29歳のデブラ・ジャクソン(Debra Jackson)という黒人女性が、胸部を拳銃で3発撃たれ、ロサンゼルス南部の路地裏に遺体を遺棄されているのが発見された。翌1986年8月にはヘンリエッタ・ライトHenrietta Wright(35歳)が同様に射殺体となって見つかった。
1987年頃にはサウスLA周辺ですでに複数の女性が同じ手口で殺害され、いずれも至近距離から25口径自動式拳銃で胸を撃たれており、遺体は裏通りの路上やゴミ捨て場に捨てられていた。被害者はすべて黒人女性で、多くのケースで性的暴行の痕跡があった。
1980年代中盤のサウスロサンゼルスは、クラックコカインが街を飲み込み、中毒者と売春女性が路上をさまよっていた。街全体の犯罪率は爆発的に上がり、LAPDはクラックとギャング対策で手一杯になっていた。被害者がドラッグ依存や売春に関わる黒人女性だと、捜査は後回し。内部では「NHI(No Humans Involved)」つまり「人間が関わってない事件」と揶揄されるほど、優先度は最下位だった。
この時期、貧困層の黒人女性、特に売春や薬物依存の問題を抱える女性たちが、次々と殺害される事件が相次いだ。なんと同じ地域・同じ時期に少なくとも4〜6人のシリアルキラーが同時に活動していたのだ。
チェスター・ターナー(Chester Dewayne Turner)は1987年から1998年にかけて、少なくとも14人の女性(一部の情報では胎児を含む)を強姦・絞殺。被害者は主にフィゲロア通り周辺の売春婦や薬物使用者で、遺体は路地に捨てられていた。元ピザ配達員で、ホームレス生活を送っていたターナーは、2007年に10件の殺人で死刑判決を受け、2014年にさらに4件が追加された。
マイケル・ヒューズ(Michael Hughes)は1986年から1993年にかけて、7〜8人の女性を殺害。元警備員で、被害者を絞殺し、時には挑発的なポーズで遺棄する残虐な手口が特徴。1998年に4件の殺人で無期懲役、2011〜2012年にさらに3件が追加され死刑判決を受けた。
ルイス・クレイン(Louis Craine)は4人の女性を殺害。1984年から1987年にかけて、4人の女性を強姦・絞殺した。IQが低く、読み書きが困難だった彼は、近所の知り合いを狙うことが多かった。1989年に死刑判決を受けたが、同年エイズ合併症で獄死(31歳)。
警察はこれらを当初「Southside Slayer(サウスサイド・スレイヤー)」として一人の犯行と信じ、巨大なタスクフォースを組んでいた。しかしDNA鑑定が進むにつれ、複数の怪物が同じ狩場で獲物を奪い合っていたことが判明し、捜査は完全に混乱し、手がかりはゼロだった。街は、文字通り「シリアルキラーだらけ」の無法地帯。だからこそ、ロニーは25年以上も「近所のおじさん」の仮面を被り続けられたのだ。
1987年1月10日、サウスLAの路地裏で23歳の黒人女性バーバラ・ウェア(Barbara Ware)の遺体が発見された。彼女は胸を.25口径の拳銃で撃たれ、ゴミの下に隠され、空のガソリンタンクで覆われていた。これは匿名男性からの911緊急電話によって発見された。午前0時19分頃、公衆電話から通報があり「30分前に、青と白のダッジバンから女性の遺体を捨てるのを見た。遺体をゴミで覆い、ガソリンタンクを置いた。ナンバーは1PZP746だ」と冷静に説明した。通報者は「知り合いが多く、匿名にしたい」と言い、電話を切った。
警察が急行すると、通報者の記述は、現場と完全に一致し遺体はまさにその場所で発見され、指定された車は近くのコスモポリタン教会の駐車場で見つかり、エンジンがまだ温かかったとされている。当時この事件は迅速な追及が行われず、911録音テープは、事件から22年後の2009年にようやく公開され、目撃者の声が犯人本人ではないかと疑う声もあった。しかし捜査官は、『犯人ならこんなに詳細を話してリスクを取らない』と目撃者だと結論づけ、通報者は特定されず今も謎のままである。
その後1987年4月15日、26歳の女性 ベリータ・スパークス (Berita Sparks)、1987年8月31日、26歳の女性 メアリー・ロウ(Mary Lowe)が同じ手口で殺害された。そして1988年1月30日、22歳の女性 ラクリシャ・ジェファーソン(Lacricia Jefferson)が、サウスLAの路上で遺体となって発見された。またも同じ手口の犯行であり(.25口径の銃撃性的暴行の痕跡)遺体からは “AIDS” と書かれた紙ナプキンが見つかった。これは社会から切り捨てられた黒人女性たちを狙い続けた犯人の冷酷さと偏見 を象徴する侮辱的なメッセージとされている。
その後、1988年9月11日、18歳のアリシア・アレクサンダー(Alicia Monique Alexander)がバーモント・スクエア地区の路地裏で遺体となって発見された。すべての事件は、ロニーの自宅から半径5〜10km以内。まさに彼の“日常の通勤圏”で起きていたのだった。当時、市のゴミ収集員として働いていたロニーは、街の路地裏のストリートを知り尽くしていた。
アメリカのゴミ収集は、各家庭が巨大なプラスチック製のゴミ箱(wheelie bin)を道路脇に置いておくと、収集車が機械アームで自動的に持ち上げて回収する。日本のように細かい分別もなく、作業員はほとんど車から降りない。ロニーはどの路地が監視カメラも街灯もないか、どの時間帯なら人目につかないか、ゴミ箱がどこに並んでいて、遺体を隠しやすいかを、仕事として完璧に把握していた。
彼は被害者をまるで“生ゴミ”のように路地裏やゴミ箱のすぐ横に、何事もなかったかのように捨て去っていた。近所の人たちは毎朝、「今日もLonnieがゴミ回収に来てくれたよ」と笑顔で挨拶していたのに、そのすぐ近くで、彼は夜になると“別のゴミ”を捨てに出かけていたのだった。
そんな中、唯一の生存者となった女性がいた。彼女の名は当時27歳の二児の母だったイーニートラ・ワシントン(Enietra Washington)。1988年11月19日、夜遅くに、彼女は友人のリンダとパーティーに行く予定で、リンダの家までいつもの道を歩いていた。 途中、一台のオレンジ色のフォード・ピントが停まっているのが目に入り、彼女がそのユニークな車を褒めた。すると運転席にいた30代前半の黒人男性が何か叫びながら話しかけてきた。どこへ向かっているのかと聞かれ、彼女は正直に答えた。男は車で送るよと言い、彼女はそれを断った。すると 男は『これだから黒人の女は……。せっかく親切にしてやろうとしてるのに』と言った。彼は黒のポロシャツにカーキ色のズボンという服装。脅威など微塵も感じさせないごく普通に見える男だった。彼の言葉に少しの罪悪感を覚えた彼女は考えを変え、車に乗り込んでしまった。
男は愛想が良く、走行中2人は会話を楽しんだ。そして叔父の家にちょっと寄って金を受け取ってから友人の家に送ると言い、住宅街まで行き、近くの家に入った。しかし、車に戻ってくると男の表情は一変し、イーニートラを別の名で呼び、「つきまとってきた失礼な女」と言った。それは私の名ではないと彼女が言うとその場は静まり返った。そして男は突然銃を取り出し彼女の胸に発砲。彼女は重傷を負った上、性的暴行を受け、路上に投げ出された。彼女は瀕死の状態だったが、奇跡的に一命を取り留め、犯人の顔や車の特徴を鮮明に記憶していた。彼女の証言は後に決定的な鍵となるが、当時この事件は単独の強盗傷害として処理されてしまった。
そして1988年以降、事件はぷつりと途絶えた。あれほど猟奇的な犯行を繰り返していた殺人鬼が、突然姿を消したとされている。彼の異名「グリム・スリーパー」(眠れる殺人鬼)は「死神」を意味する「Grim Reaper(グリム・リーパー)」と、眠る人(Sleeper)を掛けたダジャレ的あだ名である。
この「スリーパー期間中」ロニーは車両窃盗や盗品所持、軽犯罪としての暴行などで少なくとも3回逮捕されている。しかし彼は司法取引で重い刑罰を逃れ「刑務所」ではなく、いつも「拘置所」止まりだった。当時の郡拘置所ではDNA採取のシステムが徹底されておらず、警察は彼を何度も捕まえていながら、その男が街を震え上がらせている『悪魔』であることに気づかず、釈放してしまっていた。この空白の期間によって事件は風化し、犯人も野放しのまま忘れられていき、南ロサンゼルスの日常には一見平穏が戻ったかのようだった。しかし14年後、悪夢は再び目覚めた。
2002年3月、15歳の少女プリンセス・バーソミュー(Princess Berthomieux)がイングルウッドの路地裏で絞殺体となって発見された。翌2003年7月、35歳のヴァレリー・マコヴィー(Valerie McCorvey)が同様に絞殺され、路地に捨てられていた。そして2007年1月1日、年明け早々。25歳のジャネシア・ピーターズ(Janecia Peters)が黒いビニール袋に包まれたまま、ゴミ箱の中から発見された。背中を撃たれ、首を絞められた残酷な姿で。
この光景を見た瞬間、1980年代の事件を追っていたベテラン刑事たちは凍りついた。「……まさか、あの怪物が、まだ生きていたのか?」ジャネシアの遺体から採取されたDNAと銃弾の弾道が、4年前の未解決事件と完全に一致した。こうして1985年から2007年までのすべての殺人が、一本の線で繋がった。
南LAを恐怖に陥れた連続殺人鬼は、まだ獲物を求めていたのだ…。
そして、ついに事件は解決の糸口を迎える。2008年頃、LAPDは新たな捜査手法に賭けた。それが家族DNA捜査(familial DNA search)。犯人本人のDNAがなくても、親族のDNAから血縁関係を割り出す、全米初の革新的手法で、カリフォルニア州は全米で初めてこの手法を合法化した。捜査チームは、事件現場に残されたDNAをデータベースと照合し続け、2010年7月、ついにヒット。
データベースに登録されていたのは、ロニー・フランクリンJr.の息子、クリストファー・フランクリン(当時29歳)。彼は2009年に銃器関連の軽犯罪で逮捕され、DNAを採取されていた。息子のDNAが部分一致したことで、父親のロニーが最有力容疑者に浮上した。覆面捜査官がバッサー(食器片付け係)を装ってロニーの食べ残しのピザクラストやナフキンを回収しDNAを採取。
結果──『完全一致』
2010年7月7日、57年間「普通のおじさん」として暮らしてきたロニーは自宅で逮捕された。取り調べでロニーは全ての被害者から彼のDNAが発見されたと告げられても、シラを斬り通し「知らない」と否定し続け、被害者女性の写真を見てブスだと軽蔑的な発言もした。
家宅捜索では9丁の銃器が押収され、その中には殺害に使われた25口径自動拳銃も見つかった。冷蔵庫、引き出し、ガレージの棚に隠された150人以上の女性のポラロイド写真、ビデオ、身分証が1000点以上の発見された。写真の女性達はほとんどが裸か半裸で、意識を失った状態、恐怖に怯えた表情の写真もあった。その中には既に確認された10人の被害者もいたが、ほとんどは今も身元が特定できていない女性たちだった。しかも、1988年から2002年の「休眠期」と呼ばれる14年間に撮影されたと思われる写真が、山ほどあった。
つまりGrim Sleeperは決して眠ってなどいなかった、ただ証拠が残らないようより慎重に、あるいは別の方法で獲物を狩り続けていた可能性が極めて高い。本当の被害者は、50人、いや100人を超えているかもしれないと言われている。
2016年5月5日。陪審はたった2時間の評議で、10件の第一級殺人と1件の殺人未遂について全員一致で有罪を宣告した。同年8月10日ロニー・フランクリンJr.は死刑判決を受けた。法廷で彼は最後まで無表情で、被害者遺族に向けた謝罪の言葉は一言もなかった。
しかし、彼は死刑台に立つ日を迎える事はなかった。2020年3月28日、25年以上にわたり逃げ続けた怪物ロニー・フランクリンJr.はサン・クエンティン州立刑務所の独房で、67歳で病死した。